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北京から西安へ-中国

北京から西安へ-中国

北京から夜行列車で西安へ

北京から夜行列車で西安へ

【個性のある兵馬俑】

個性のある兵馬俑

旅行情報
日程 2005年11月19日-27日
滞在地 北京・西安
レート 15.3円/元(北京)
費用 北京往復:42,000円
現地使用:---元 (合計----円)

コース(タイム)

11/19 横浜=成田(CA0926)==(18:00)北京
11/20 北京(頤和園・円明園)
11/21 北京(牛街清真寺・西単)=北京西駅(Z19次)
11/22 =(7:58)西安駅=(始皇帝陵・兵馬俑・華清池)
11/23 西安(興慶宮公園・鐘楼・鼓楼・古文化街・南門・城壁・小雁塔・歴史博物館)
11/24 西安(大雁塔・青龍寺・碑林)=西安駅(Z20次)
11/25 =(6:53)北京駅=(香山・王府井)
11/26 北京(天安門・故宮博物院・王府井・北京市規画展覧館)
11/27 北京(CA0925)==(13:50)成田=横浜

【11月19日(土)】
 勤続15年報償で5日間の休暇をもらえることになった。土日で挟むと9連休となる。めったにないこの休みでどこに行こうかと考えた末、かねてからの念願である、西安の兵馬俑を見ることにした。日程は、航空運賃の安い11月に決定。祝日を含む日程となったので10連休となった。ちょうどJTBの新聞広告で、北京までの格安チケットがあったため、それを購入することにした。広告では往復29,000円だったが、帰国が日曜日のため5,000円増し。また、空港税やらなんやらで詐欺のように料金がふくれあがり、結局往復40,000円以上となった。北京から西安までは、普通は空路だろうが、ホテル代を浮かせることができる寝台列車を利用することにした。チケットは北京の知人に確保してもらった。

 14:55成田発北京行きのCA0926は、搭乗が順調に終了し、これから飛び立とうかと言うときになかなか飛び立たなかった。30分くらい待機していたろうか、半分寝ていたのでよく分からない。北京空港から乗ったタクシーでその理由が分かった。米国のブッシュ大統領がちょうど北京に来ていて、空港を利用していたためだったらしい。タクシーの窓からエアフォースワンの姿が見えていた。
 夕食は、韓国焼き肉の「明月三千里烤肉店」で焼き肉を食べる。

【11月20日(日)】
 北京での最初の朝を迎えた。日本とは一時間の時差があるが、明るくなるのが遅い。どんよりとした空で、天気が気になったが、明るくなるにつれ晴れてきた。今回の旅行を通して概ね晴れで、日本から持ってきた傘を使うことはなかった。
 街の通りの屋台で煎餅を食べる。煎餅とは、北京風クレープだろうか。とき卵を落とし、唐辛子味噌、揚げパン、ネギをはさみ込んで作るものである。屋台には「清真」と書かれていたので、イスラム教御用達の食べ物なのだろう。
 朝食は、牛街礼拝堂の近くの食堂「吐魯番餐庁」に入った。人気のある店で、空席待ちの行列ができていた。並んで包子と不思議な味がする炸豆腐湯を食べた。
 この日は世界遺産の頤和園へ行くことにしていた。北京へ来るのは2度目だが、見どころはたくさんあり、まだ見ていないところがたくさん残っている。この頤和園は世界遺産で、訪れないわけにはいかないのである。
 前門の近くのバス停から、頤和園へは路線バスで行く。市内は渋滞しており、なかなかバスは進まなかった。車窓の風景を眺めていると、中国の秋葉原と言われている中関村を通過した。電気通信機器を販売する店が多いためそのように言われているようだ。だが、さすがに物価の安い中国でもハイテク機器に関しては日本よりは安くない。デジカメ用のメモリーカードを買おうと思ったが、日本の倍ほどもするようだった。
 中関村の近くには北京大学もある。北京大学のバス停ではバスを降りる人が多かった。今年4月の半日デモはこのあたりで始まったのだろう。
 1時間ほどかかって頤和園のバス停に着いたものの、頤和園の入口までは少し歩かなければならない。チケット売り場は人だかりができている。整然と並んでいないところが中国らしい。通し券の40RMBを購入。チケットにはTHE SUMMER PALACEと書かれていた。避暑地と言うことだろうが、真冬の寒いときに来てしまった。


仏香閣 【仏香閣】

 石基台の上に立つ高さ41m、八角形の塔。乾隆帝の創建。


 銅獅が守る東宮門をくぐり中に入る。門の扁額は好緒帝直筆らしい。入場客はほとんど中国人だが欧米系の人たちの姿も見られる。道なりにぞろぞろと進んでいくと、大きな湖が広がる。湖の右手には、万寿山があり、頤和園の象徴でもある仏香閣が見えている。しかしあろう事か、その仏香閣は、改装中なのか足場で取り囲まれている。せっかくの風景が台無しである。中にも入れそうになさそうだ。湖の左手には遠くに美しい十七孔橋が見える。

十七孔橋 【十七孔橋】

 右手の南湖島と繋がれている。。


 湖に沿って万寿山の方へ歩いていく。十七孔橋とは反対の方向なので、十七孔橋へ行くためにはまた引き返してこなければならない。そのため、遊覧船もあるのだが、この日は湖の水位が低く、遊覧船は出ていないようだ。冬場はいつもそうなのかは分からないが、これから更に寒くなると湖は凍るだろうから、いずれにせよ遊覧船は動かない。冬場に頤和園へは行くべきではないかも知れない。
 万寿山の麓まで来ると、長廊がある。長さは728mあり、ほぼ直線である。柱の梁には全て色彩豊かな絵が描かれている。長廊を半分ほど歩くと、排雲門となる。門の奥には排雲殿や仏香閣があるが、やはり工事用の壁で囲まれ中に入れないようだ。湖側には「雲輝玉宇」と書かれた碑楼がある。
長廊 排雲殿 碑楼
 【長廊】
 【排雲殿】
 【碑楼】

 排雲殿に入れないので、湖沿いに歩き続けると、山の方へ登る道があったので登ってみる。少し登っただけでも眺めは良い。画中遊の扁額がある建物のところまで歩いて戻る。
 万寿山の西端に遊覧船乗り場があった。本来ならここから十七孔橋がある南湖島へ渡るところだが、船が出ていないのでどうしようもない。渡船口の先に、石舫があり、その奥に遊覧船が地面の上に繋がれていた。そのまま北の方へ歩いていき、蘇州街へ向かった。 蘇州街へ行く途中、四大部洲と智慧海という仏教建築群に立ち寄る。万寿山の山頂に建つ建物なので、北側の眺めが良い。智慧海の壁にはたくさんの仏像がはめ込まれているが、どういう訳か頭部が削り取られている。文化大革命の仕業だろうか。それとも単に金目当てに盗み取ったものだろうか。

石舫 智慧海 蘇州街
 【石舫】
 【智慧海】
 【蘇州街】

 蘇州街は、あの蘇州を模した商店街で、水路の両脇にたくさんの店が並んでいる。しかしこの水路も水が涸れており、(行ったことはないが)蘇州の面影はない。店と水都の間の通路は狭い部分があり、水路側は手すりなど無いので落ちたらたいへんである。しかも水がないので、下まで三㍍ほどある。店は観光客向けのもので、飲食店や土産物屋がある。その中で絵で名前を書いてくれる店があり、名前を書いてもらうことにした。料金は10RMBだったろうか、けっこう丁寧に書いてくれる。一画一画、絵に意味があるらしく、説明してくれた。金が貯まるだの、長生きするなど言っていたようだ。昼食は、蘇州街の食堂で、包子と炒飯を食べた。
名前を書く
 北宮門から頤和園を出て、次は円明園へ行く。両園は繋がっているわけではなく、少し離れていた。移動はタクシーでもバスでも良かったのだが、出口で待ちかまえていた白タクの運チャンに捕まり、それで行くことになった。10RMBで円明園へ行ってくれるという。白タクの運チャンが言うには、円明園は面白くないところだそうだ。もっと遠くへ連れて行きたいのだろうか。この運チャンは白タクを生業としているようだが、一日どれほど稼ぐのだろうか。普通のタクシーより安い料金しか取っていないようだが生計が成り立つのだろうか。聞きたかったが言葉が出てこなかった。

 円明園は清朝の離宮跡で、円明園、万春園、長春園の3つの庭園からなる。アヘン戦争時代に英仏連合軍に破壊、略奪されたそうで当時の面影はない。しかし、長春園の奥に西洋楼跡があり、破壊されたギリシア建築の石柱などが残されている。ガイドブックの写真にはそのような破壊された石が掲載されている。完成された建物より、破壊された建物の方が興味があり、今回訪れるきっかけとなった。
 
洋館の模型 【洋館の模型】

 かつて建てられていた洋館の再現模型が一つ一つ展示してある。なぜか丸まったお札が多数アクリルケースの中に貯まっているが、5mmほどの穴からねじ込んで入れたようだ。


大水法 【大水法】

 西洋楼遺址区の大水法。当時は噴水で、破壊されたギリシャ風の石柱や彫刻が至る所に転がっている。それでも修復が進んでいるそうだ。


 この円明園で英国とフランスの連合軍が略奪したネズミとウサギの頭部のブロンズ像2点が2009年2月25日夜、パリの競売で計3140万ユーロ(約39億円)で落札されている。落札したのは中国人で、代金を払うつもりはないとしている。150年を経て諍いはつきない。

 西洋楼遺址区を見学し終わるころには、だいぶ影が長くなり気温も急速に落ちてきた。市内の中心地に戻り、夕食は火鍋で暖まった。

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Camera:SONY DSC-U40,CANON EOS 10D

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